M・ウェーバー『宗教社会学論選』ーウェーバーに関するもう一段の知識—
1.『宗教社会学論選』とは?
『宗教社会学論選』とはドイツの政治学者、社会学者であるマックス・ウェーバーが著した書籍です。
ウェーバーは『職業としての政治』『職業としての学問』『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などで有名ですが、この『宗教社会学論選』は宗教意識と資本主義の関係をテーマにした論文の集まりであり、三つの論文と付録の「儒教とピュウリタニズム」が入っています。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』では、資本主義の発生にプロテスタンティズムの精神的態度が関係しており、「予定説」と「天職」の概念がその精神的態度の理由だという説明はよくされます。
しかし、実はそれだけでは「何故西洋に資本主義が発生したのか」というウェーバーの疑問には答え切れていません。
この「何故西洋に資本主義が発生したのか」という問いは「何故他の地域に資本主義が発生しなかったのか」という問いに置き換えると納得しやすいと思います。
ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ではカトリックやルター派とピュウリタニズムの比較をしているのですが、『宗教社会学論選』では儒教を中心にピュウリタニズムを比較していきます。
この『宗教社会学論選』の内容を学ぶ事で『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の理解がもう一段階深まります。
2.ウェーバーの宗教の位置づけ
「プロテスタンティズムの倫理が資本主義の発生の原因なんだ」という話はよくお聞きになると思います。そこでまず宗教意識と資本主義の関係について話す前提を確認しておきます。
そこで『宗教社会学論選』から引用します。少し長いですがどうぞ。
「いかなる経済倫理でも、ただ宗教によってのみ決定されている、というようなことはかつてなかった。むしろ経済倫理は、宗教的ないし、その他の「内面的」な諸要因によって制約されている人間の対現世的態度とは異なって、純粋に固有の法則をもち、かつての尺度は明らかに経済裡地理的なまた経済史的な諸事情によって高度に規定されている。とはいえ、生活様式が宗教によって規定されるという面が経済倫理の決定的要因の一つ—ただ1つにすぎないことに注意—となっている、ということもまた確かである。」
ここでウェーバーが言いたい事は2つあります。
1つめは宗教意識が重要な要因であるということ。
2つめは、だからといって宗教意識1つだけが経済倫理を決めるというわけではないということです。
ウェーバーはあくまでも宗教以外にも色々と影響する事柄は有るとしつつも、宗教が大きい要因となるとした、1つの視点に偏らないバランスが取れた見方をしていたのです。
3.「儒教とピュウリタニズム」
遅くなりましたが、ウェーバーが比較した儒教とピュウリタニズムの内容を紹介していきます。
ウェーバーは両者に資本主義の精神の萌芽を見つつも、結局儒教はその芽が伸びる事は無かったとしました。
その原因は神観と人間観、罪の意識、能動性と受動性、魔術化と脱魔術化の差など多岐に渡ります。
儒教とピュウリタニズムについて比較したのを図にまとめてみました。
儒教 | ピュウリタニズム | |||
人間観 | 人間の本性を肯定 | 人間の本性を否定 | ||
(原罪) | ||||
罪の意識 | ない | ある | ||
能動性 | ない | ある | ||
魔術化 | 魔術化 | 脱魔術化 |
この図について説明していきます。
儒教は人間罪の子の意識が有りません。性悪説はあるものの、それは罪を意味しているものではありません。人間罪の子の意識がないので、人間の「当たり前」を肯定します。この「当たり前」とは例えば家族、伝統、慣習等を意味します。これは現状を良いものとして認識する事に繋がりますし、その結果、受動的になります。また、古来からの儀式や祭儀を大事にする事にも繋がるので魔術化のままです。
そして儒教における「罪」の概念は伝統的な手続きや儀礼を守らず、秩序と調和を破る事に該当するので外面的な事柄が大切になるのです。
(例えば手紙の決まり文句などです。本当にそう思っているかどうかは関係なく、その形式が重要になります。)
一方ではピュウリタニズムはどうでしょうか。
まずキリスト教徒全体として原罪の思想が有ります。人間の本性の否定をする事になるので家族などの慣習は絶対的なものとなりません。そして人間の罪を乗り越えるためにはどうしたら良いか、と考え、結果として神の理想に生きる事である、という思想に至ります。(この辺は「予定説」と「天職」の融合した過程に似ていますね。)
神の理想に生きる事が第一条件となるので、「父母よりも神を愛せ」という事に繋がり、能動的になるという訳です。
また、プロテスタントの成立はカトリックの形式化、形骸化した儀式や信仰以外の行為に反発して『聖書』のみを拠り所にしようとした動きから始まったので、脱魔術化していますね。そして信仰のみを大切にする立場、つまり内面的な事を大切にするのです。
(つまり、手紙の決まり文句は本当に心の底から思っていないといけない訳です)
4.それぞれの展開
こうした事から儒教とピュウリタニズム、それぞれどう展開していくでしょうか。
儒教の自己修養の最終目標は「君子」です。(ちなみにウェーバーは君子をジェントルマンと訳しています。)
ただしそれは主に官僚や皇帝などの上層、知識層を中心に浸透したとして、民衆は道教や仏教などの影響も強く脱魔術化はしなかったとしました。
また、人間完成のために富は必要なものとしてみなされるものの、それはオプティミズムに基づく合理化であり、それはあくまで現世的生活を向上させるための手段とみなされました。
加えて外面的な事柄を大切にし、内面的な事柄にまでは影響を及ぼさなかったのです。
ピュウリタニズムは違います。罪の意識から現世を聖なる世界へと造り変えさなくてはならず、そのためにビジネスライク的な合理化が行われるのです。そしてその行動原理は決して外面的な事柄ではなく、内面的、人々の動機、主観的な意味なのです。
5.模範預言と使命預言
さて、いよいよ「何故資本主義が西洋にのみ発生したのか」についてまとめます。
ウェーバーは預言という概念を持ち出してきて、模範預言と使命預言というものがあると説きます。
模範預言とは、救済へ辿り着く有り方の模範を身をもって示すような預言の事です。
イメージ的には儒教では君子、仏教では悟りの境地、道教では無為自然などを思い描いてくだされば結構です。この救済は個人的であり、恍惚的な、そして神秘的な心境です。
特徴としてはそれはあくまで指針であり、罰せられるものではないという事です。
それから自己を神性の器と考えます。神概念は非人格的であり、天。梵我一如の梵。道などに相当します。
逆に使命預言とは神の名において、もちろん倫理的な、そしてしばしば行動的・禁欲的な性格の要求を現世に突きつけるような預言を指しています。
それは「悔い改めよ」の思想であり、神の意志に従うか否かの決断を人々に迫ってくるものです。
この使命預言は自己を神性の容器ではなく、神の道具と見なす事になります。神概念は現世を超越する人格的な、怒り、赦し、愛し、求め、罰するような創造主という神概念と親和性を持っています。
この使命預言は現世で人々を積極的な行動へと駆り立てる役割を果たしたとしたのです。ここから『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』へと繋がっていきます。
そしてこの使命予言は世界史の中でイスラエルからしか生まれなかったとウェーバーはしたのです。ここに「何故西洋に資本主義が発生したのか」という問いに答えが出た事になります。
5.まとめ
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において「予定説」と「天職」の概念が関係している、という考え方は分かりやすいと思います。
しかし、今回はそれをもう一段階深めてみました。(その分、複雑で難しくなりましたが……)
『宗教社会学論選』にはここでまとめきれなかった論点がまだまだ有ります。
マックス・ウェーバーに対して知的好奇心が湧いた方はぜひ『宗教社会学論選』を読んでみてください。