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『後世への最大遺物』—内村鑑三の思想—

版元ドットコムより

1.『後世への最大遺物』とは?

 『後世への最大遺物』とは日本のキリスト教思想家、文学者である内村鑑三が、キリスト教の学校の開設の際に述べた講話を小冊子にしたものです。

 内村鑑三の名前は内村鑑三不敬事件や無教会主義を唱えた事で聞いた事が有ると思います。

 

2.内容と中身

 内村鑑三は「人が後世に対して残せるものはなんでしょうか」と問いかけます。

 そして次々と皆が思い当たるものを挙げていきます。

 その第一がお金です。内村鑑三は決して富を否定せず、むしろ「金を遺すものを卑しめるような人はやはり金のことに卑しい人である」とします。

 これは確かにその通りだなと思います。「お金なんか大切ではない、とかお金よりもっと大切なものがある」と主張している人の中には、高潔な精神から本当にお金より大切なものを見出せる人もいる一方で、本当はお金が欲しいのに、虚飾を被って自分がお金持ちになれないからお金持ちを批判するような人も一定数いるように感じられます。

 内村鑑三は富を集めるという事は、「これは非常に神の助けを受け取る人でなければできない事である」とします。ここら辺は流石プロテスタントの一派であるメソジスト派であるなとの印象を受けます。

 

 次にお金を後世への遺物とするならばお金を貯める事だけではなく、使う事も大切であるとします。これは即ち、事業という形になります。単にお金を貯めて子々孫々が使えるように、あるいは寄付をするよりも、事業として継続性を持たせる事がより後世への遺物になると考えました。というのも、お金に利息が付き、どんどんなってくるように、事業も段々大きくなってくるからです。

 

 しかし、内村鑑三はこうも問いかけます。お金を貯める才能、お金を使う才能、事業を打ち立てる才能、事業を起こせるだけの社会的な地位が無い時はどうしたら良いのだろうかと。

 そうした人は思想を遺す事が出来ると内村鑑三は説きます。この思想を遺すという事に関して内村鑑三は著述をする事と教育の二つに分類します。『後世への最大遺物』はあくまでも講話ですので時間的関係上、内村鑑三は前者に関してしか述べません。 

 内村鑑三は『聖書』を始めとしてジョン・ロックの『人間知性論』、頼山陽の『日本外史』などを例に挙げ、思想を書物として残す事の偉大さを語ります。

 そしてカーライルの「何でもよいから深いところへ入れ、深いところにはことごとく音楽がある。」という言葉やバンヤンの「私はプラトンの本もまたアリストテレスの本の読んだことはない、ただイエス・キリストの恩寵に預かった憐れなる罪人であるから、ただわた思うそのままを書くのである」という言葉を引用して、文法や技術論はともかくとして、心のままを記せばよいと言います。

 

 しかし、内村鑑三は再び問いかけます。お金の才能も、事業を成す能力も、思想を遺せない人はどうしたら良いのだろうか。もしそれらができないならば、後世に何も遺せないのか、平凡の人間として消えてゆくのかと。

 否、と内村鑑三は力強く言います。

 誰にも遺す事のできる遺物が有り、しかもそれは最大遺物であるものがあると言うのです。

 お金、事業、思想。これらが最大遺物となり得ない理由として、誰に当てはまらないという点、結果が必ずしも良いものに限らず、害になる事も有り得るという点のに2点を挙げます。

 それでは内村鑑三が指した後世への最大遺物とは何でしょうか。

 それは勇ましい高尚なる生涯です。この勇ましい高尚なる生涯とは、世界は決して悪が優勢な世の中ではなく、神が支配する世の中であるという事を信じる事です。その希望や歓喜を生涯に実行し、その生き方を世の中を後世への贈物としてこの世を去れる事です。

 偉人の生涯を思い浮かべてみてください。

 例えば二宮尊徳(金次郎)。母が亡くなり、貧乏生活の中、祖父に預けられた尊徳ですが、その尊徳が夜に読書をしていると、祖父に「燈油の無駄使い」として禁止され、しばしば罵られました。そこで二宮尊徳は自分で菜種油を取って燈油を手に入れました。 

 しかし、祖父はまた尊徳に言います。「油が自分のものあれば本を読んでいいというわけではない。お前の時間も私のものであるから、空いた時間が有るなら仕事をしろ」と。そこで歩きながら本を読めば文句はないだろう、という事で皆も知っている二宮金次郎像になったわけです。

(ちなみに正確には薪を背負いながら、勉強した内容を暗唱していたそうです。)

 こうした二宮尊徳の生き方は、決して思想のような纏まったものではないけれど、しかし私たちの心に確かに訴えてくるものが有りますよね。

 大多数が間違っている中で正義を貫いた人、先天的あるいは後天的に病気などが有りながらも強く生きた人、人々への愛のためにそれまでの自分の地位を投げ打った人。

 歴史を紐解けば数多くそのような人物が見られます。

 偉人と呼ばれる人はその業績や結果に目が行きがちですが、しかしその本質はその精神であり、その精神こそが後世への最大遺物として残るのです。

 そして重要な事は、その精神は誰もが残せるという事に有ると思います。

 

3.内村鑑三の生涯

 内村鑑三は「内村鑑三不敬事件」等で知られている訳ですが、内村鑑三は決して日本を否定したいわけではありません。 

 内村鑑三キリスト教徒に目覚めた後、二つのJに使える決意をしています。二つのJとはイエス(Jesus)と日本(Japan)です。加えて内村鑑三の墓碑銘には「我は日本ために 日本は世界の為に 世界はキリストの為に そしてすべては神のために」という内容の英文が刻んであります。

 不敬事件で批判を受けたり、離婚の経験や再婚した妻の死亡、愛する娘の夭折などを経験した内村鑑三

 しかし、その内村鑑三は自分を非難した日本を非難せずに日本に尽くし、また襲った不幸に対しても懸命に耐え、墓碑にあるような言葉を残しています。

 そこに内村鑑三の高邁な精神が読み取れると思います。

 

 後世への最大遺物としての勇ましい高尚なる生涯。

 皆さんは既にこれをしたいなどの夢やこう行きたいという思いが漠然とでもあると思います。その中に人生の生き方としてこの勇ましい高尚なる生涯を遺すという事も考えてみてはいかがでしょうか。