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M・ウェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ー今の資本主義に求められる精神的態度とはー

岩波書店より


1.『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とは?

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とはドイツの政治学者、社会学者であるマックス・ウェーバーが著した書籍です。

 何故資本主義が西洋に生まれたのか、という事をマックス・ウェーバーは疑問に思っていました。その結論としてプロテスタンティズムの倫理が関係しているとしました。

 

2.ウェーバーの歴史の見方

 ウェーバーはその当時の主観的や動機、考え方等を考慮に入れながら研究をする事を大切にしていました。それは本のタイトルに「倫理」と「精神」が入っている事からも伺えます。

 これは料理に例えれば分かりやすいと思います。卵とご飯と醤油が有ると仮定します。ある人は卵かけご飯(TKG)を作ります。ある人は卵を目玉焼きにしますし、ある人は卵焼きにします。卵、ご飯、醤油という条件は同じのはずなのに何故差が出てしまうのでしょうか? これは料理の作り手の気持ち、考えが影響していますよね?

 この料理の作り手を当時の人々、その気持ちを精神と考えればウェーバーの考え方は理解しやすいと思います。

 逆に言えば、卵、ご飯、醤油という物質的条件さえそろえば一定の結果(料理)が出来上がると考える思想に反対的でした。

 ここがウェーバーマルクスが対比される理由の一つでもあります。

 

3.「予定説」と「天職(コーリング/ベルーフ)」

 ウェーバーが資本主義が西洋から生まれ、そしてプロテスタンティズムの倫理と関係していると考えた理由として主として「予定説」と「召命」の考え方が有ります。

 予定説とは一人一人が救われるかは既に決まっているという考え方です。カルバンなどが唱え、プロテスタントの中でもカルヴィニズムの人たちがこの考え方です。

 さて、この予定説。救われるか救われないかが既に決まっている、というのはとても怖いですよね。もしかしたら自分は救われない人間かもしれない。こうした感情から一体何が生まれてきたでしょうか。

 それは自分は救われている存在である証明が欲しい、という感情です。

 

 ここに天職の概念が関係してきます。天職とは自分の職業は神から授かった使命であるものである、とする考え方です。

 予定説に天職の考え方が合わさった結果、「自分の職業は神から与えられたものである。自分が救われているか救われていないかは分からないけれど、しかし自分の職業に一生懸命になって神の栄光を地上に下ろせる事が出来れば、自分が神に愛されている証明に違いない」となりました。

 ここに「金持ちが神の国には入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」としたキリスト教の教えを打ち破る事になりました。

 

4.禁欲と資本投下、そして懸念

 プロテスタントたちは自分たちの仕事の目的は神の栄光を下ろすためと考えていました。

 自分たちのために仕事をしている訳ではないので、得られた利益は決して欲得のために使う事はしません。その結果、どんどん資本が溜まっていき、その資本を神のために使うという無限ループが発生します。

 これが現在の資本主義の形成に役立ったとしました。

 

 しかし、ウェーバープロテスタンティズムの倫理が資本主義の形成の理由の一つとした一方で、未来の資本主義に対する懸念点も示しています。ウェーバーはメソジストのジョン・ウェズリーの言葉を引用しています。

 以下の文章がジョン・ウェズリーの言葉の一部です。

 「私は懸念しているのだが、富の増加したところでは、それに比例して宗教の実質が減少してくるようだ。……宗教はどうしても勤労と節約を生み出すことになるし、また、この二つは富をもたらすほかはない。しかし、富が増すとともに、高ぶりや怒り、また、あらゆる形で現世への愛着も増してくる。

 つまり、予定説と天職の考え方が人々の中に残り続ければ、人々は禁欲をします。しかし、上記の考え方が人々の中で薄れてしまえば、神のためという使命感がなくなり、禁欲も無くなってしまうと考えたのです。

 

5.終わりに

 ここで大切なのが、ウェーバーはあくまで資本主義の「形成」にプロテスタンティズムの倫理が影響したと述べているだけでその後の維持には必要していないと述べている事です。

 これは他の国を見れば分かりますね。私たち日本人は別にカルヴィニズムの考え方がないですが、資本主義の社会の中に生きています。

 資本主義の維持には必要としていないウェーバーですが、それはあくまで現実を見据えた未来予測であり、そうなってほしくはないと思っていたように見えます。

 以下が本の文章の一部です。

 「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と己惚れるだろう」

 現在の資本主義社会を見ていただければ分かるように、神の栄光を地上に下ろすという考え方を持って職業に従事している人がどれだけいる事でしょうか。

 そうした社会の中でプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神について思い返してみたらいかがでしょうか。